強運の持ち主・松田聖子さん(1)強運な経歴と出生時刻の出し方について

有名人・著名人の占例

今後間違いなく日本の芸能史上に長く名前を残すこととなるといってもいいくらいの歌手・松田聖子さんですが、実はデビューに漕ぎつけるまで苦難の壁が次々と立ちはだかり、期待の大型新人のスター歌手としてデビューできたこと自体が奇跡だったという事をご存じでしょうか?

今回から数回に渡り、松田聖子さんのデビュー当時の運勢を見て行く記事をお送りします。

今回の記事では奇跡が起こった歌手デビューまでの聖子さんのストーリーをご紹介

■聖子さん、デビューまでの苦難の経歴

1978年戊午年 高校二年生
●せっかくCBSソニーと共催のミスセブンティーンの大会に出場して九州地区予選大会で優勝したのにも関わらず、大切な娘を芸能界のような信用ならない世界に進ませたくないお父さんからの猛烈な反対により全国大会の出場を辞退する。

歌手になることを巡ってお父さんとは一年近く毎日ケンカの日々で殴られることもあった。
(お父さんはこの年の戊午年が終わる頃にようやく折れる)

1979年己未年 高校三年生
●聖子さんの普通ではない稀有な才能と魅力を見出してくれた敏腕音楽プロデューサーの若松プロディユーサーがどんなに掛け合っても、「ああいう地味な子は売れないから」「タレントとして華がない」「O脚」などの容姿の理由でいくつもの芸能プロダクションからことごとく断られてなかなか所属先のプロダクション会社が決まらなかった。

人気絶頂期のスター山口百恵さんが突然の引退宣言をした当時の歌謡界において、業界では「早く百恵さんに次ぐポスト百恵となるビッグスターを!」ということで百恵さんのような大人の雰囲気を持った新人の発掘に躍起になっていて、聖子さんのようなどこか子供っぽい印象の子は歯牙にもかけてもらえなかった。

●やっと決まった所属プロダクションには、その時もうすでに期待の大型新人として売り出し準備中の中山圭子さんという聖子さんよりも2歳年下の中学生の女の子がいた。

新人のプロモーションには多額の経費がかかるため、普通同じ時期に同じプロダクションから新人を二人デビューさせることはなく、そして圭子さん側とプロダクションの間では圭子さんの売り出しに注力するため圭子さんがデビューしてから2年間は他の歌手はデビューさせないという約束があった。

圭子さんの父親は俳優、祖父は映画監督という芸能の家系のサラブレッドでいわばVIP待遇。

一方当時ちょうど高校卒業を間近に控えた聖子さんからしたら、二年間も歌手デビューできなければアイドル歌手として旬の時期を逃してしまう。

これだけの障壁が重なれば、普通は人気アイドルスターになれることなど無いだろうと思うところです。

普通のプロデューサーであればスカウトしてからデビューまでに一年半以上もかかるような子などとっくにプロモーションを諦めているだろうと若松プロデューサーもご自身の著作に書かれていました。

プロダクション会社からは「1980年の秋にはデビューさせるから」というお話しを貰っていたそうですが、当初はテレビへの露出の機会がないアイドル歌手ではない歌専門の歌手活動だけの方面で売り出す予定だったとか。

そんな境遇の中でも、聖子さんの場合には奇跡が起こります。

■聖子さん、デビューまでの奇跡の経歴

1978年戊午年 高校二年生
●ミスセブンティーンのオーディション大会の予備審査で多くの応募者から送って来られた歌のデモテープの山の中から、聖子さんの歌声の入ったデモテープをたまたま発掘して聴いた伝説の名音楽プロデューサー、CBSソニーの若松宗雄プロデューサーから「この子はスターになるぞ!」と確信され、「何としてもこの子をデビューさせる」と決意されてしまう。

1979年己未年 高校三年生
●若松プロデューサーの懸命な働きによりサンミュージックの相澤社長より聖子さんを引き受ける承諾を貰う。

1980年庚申年 春・高校卒業
●1980年初頭にデビュー予定だった同じプロダクションの中山圭子さんのデビュー曲が新人売り出しのプロモーション戦略で新発売のシャンプーのCMソングとして採用が決定していたが、そのシャンプーに日本では使用が認可されていない成分が使われていたという事が発売直前に発覚し、シャンプーの発売は中止。
CMでの大型新人売り出し戦略も全て流れてしまい圭子さんのデビューシングル曲の売り上げはさっぱり振るわず。二枚目のシングル曲も同様。
そこでいわば二番手以下の補欠の立場だった聖子さんに急遽白羽の矢が立つ。
サンミュージックとCBSソニーは圭子さんから聖子さんの売り出しへと急遽シフトする。
(圭子さんは翌年にサンミュージックを退社)

●4月に歌手デビュー、資生堂の新製品「エクボ」のCM曲となったデビュー曲「裸足の季節」で注目を浴び、続く二枚目のシングル「青い珊瑚礁」で空前の大ヒットを飛ばし、「聖子ちゃんカット」が日本中で大ブームとなり当時の社会現象となる。
当初から若松プロデューサーが確信していた通りに歌謡界にポスト百恵ではなく松田聖子の新しい時代が始まる。

もし、聖子さんが信念も弱く親に反抗できない従順でおとなしい性格の子でお父さんを説得するのを諦めてしまっていたら?

もし、あの時若松プロデューサーが聖子さんのデモテープの曲を聴いていなかったら?

もし、あの時サンミュージックの相澤社長が聖子さんを引き受けてくれていなかったら?

もし、あの時中山圭子さんのCMが順調に進んでいたら?

いくつもの「もし?」がよぎります。

一つでも欠けていたら、
運命の歯車が一つでもずれていたら、
いくつもの思い出をくれたあの歌手松田聖子は存在しなかったかもしれないから。

これらの「もし?」が全て聖子さんの歌手デビューに有利な側に倒れたのであれば、それはもう奇跡の連続が起こっていたわけです。

で、私の場合やっぱりとっても気になるのはこのようなすごいドラマがあった人の運勢では一体何が起こっていたのか?です。

このような強運の女神様が降ってきたかのような奇跡が起きている人には運勢を見る占いでも必ず何かが起こっているはずです。

ですのでいつものように四柱推命と紫微斗数で命式と盤を出すのですが、聖子さんの場合は私は出生時刻のことで「どっちだろうか?」とちょこっと考えてしまいました。

松田聖子さんの出生時刻は「17時05分(福岡県)」と公表されています。

地域別の時差は考慮に入れないという見方をする先生もいらっしゃいますからそれで行けばそのまま酉時生まれとなりますが、大半の方は福岡県生まれなのでここから-18分するということになるかと思います。

17時は申時と酉時のちょうど境目の時です。

-18分の調整をすると聖子さんの出時は境目を一つ前に跨いで16時47分で申時となります。

しかし、東洋占いの本場中国や台湾、香港では日本人とは違い細かいことは気にしない大雑把?な気質のせいか、生まれた地域による時差の計算はしない場合が多いです。
(流派にもよるのかも、四柱推命でも均時差を使う・使わないもあちらでは流派によるようですね。)

私とご縁のあった香港・台湾の先生方は地域差による時差は考慮しないというやり方が基本。

ただし、聖子さんのように刻の境目を中心として前後5分、合わせて十分以内に生まれている場合であれば、両方の時刻の時差を調整しないものと調整したものの両方を出してみてどちらが本人の実像に相応しいか?を検討した上でどちらであるかを決める。

このような方法を取る方ばかりでした。

機械的に単純計算して出した時刻を当てはめるだけよりも、こちらのやり方の方が本人に合ったものが出せます。
(ただし星の象意などをちゃんと把握できていないとこの方法は難しい。)

ですので私もそのようにするようになりました。

特に紫微斗数では同じ日に生まれていても一つ時刻が前後するだけで人物像が別人のようにガラリと大きく違ってしまうことは良くあることです。

さて、聖子さんの生時は申時でしょうか?
それとも酉時でしょうか?

出来上がった命式と盤、この時彼女に巡って来ていた強運の鍵は何?

長くなったので、続きはまた次回の記事で。

強運の持ち主・松田聖子のさんの四柱推命・紫微斗数(2)
申と酉どちらが聖子さんの命式・命盤か?
の記事に続く

 

参考文献
若松宗雄著「松田聖子の誕生」新潮新書
中川右介著「松田聖子と中森明菜」幻冬舎新書